紀伊加茂谷について ~はじめに~
紀伊加茂谷 和歌山県下津町
和歌山県下津町は、県北部に位置する山と海に面した小さな町だ。
町内で最も標高の高い鏡石山に起点をなす加茂川が、町のほぼ中心を流れ、川による浸食が谷を形成している。
東西に流れるこの川は、やがて下津港へ注ぎ、紀伊水道と出会う。
下津町沖合は、豊富な漁場でもある暖流黒潮の恵みをもたらしてくれている。
瀬戸内式気候に属したこの地は一年を通して温暖で、降雨量も少なく、山間部などでは
古くからミカンの栽培が盛んで、最近ではビワ・キウイなどの果樹園農家も多い。
この下津町の前身となる呼称が、加茂谷と呼ばれる地区であった。
近代の下津町は、明治期の集落合併を経て、昭和30年(1955年)に下津(濱中村)・大崎町・塩津村・加茂村・仁義村との合併により、
現下津町として発足し、平成17年(2005年)の4月までの半世紀の間、行政区として存在していた。
加茂谷としては、現在有田市初島町に属している椒(はじかみ)地区も含まれていたが、地形地質、水系などの観点もあり、
椒村は初島町に編入し、やがて有田市へと組み込まれていった。
当然、加茂谷の全貌を見て行く上で、椒村についてもここで扱う対象としていきたい。
下津町は小さな町であるが、元は山塊集落が編入統合を繰り返して、形成してきた近代行政区への経緯と
やはり加茂谷と言う古くからの文化圏のまとまりがあったことによるものだ。
町北部に悠然と構える藤白山脈は、古来より熊野参詣道の一郭となす紀伊路が通っており、藤白峠には
熊野第一の美景と呼ばれる御所の芝がある。
御所の芝からの景観は素晴らしく、紀ノ川河口による紀ノ川平野を一望することができる。
周辺には地蔵峰寺城跡も確認され、守りの詰所として機能し、近くには大野城跡もあった。
南方の境界は長峰山脈が横たわり、有田との文化の境を成していた。
長峰山脈以南でも有田川平野を望むことができる。
紀ノ川平野と有田川平野の異文化を二つの山脈が分け隔て、その山間地帯に加茂谷が挟まれる様な形で成り立っている。
やはり紀伊路が交通の要となり、加茂谷は古くから文化の交換の機能をしていたと想像する。
蟻の熊野詣で賑わっていた当時は、都人の姿を見かけてはもてなしをして、雅な香りを感じていただろうし、
異国の者からの話を聞いたりして、日々の生活の息抜きになっていただろう。
また中世においては、紀伊徳川家の菩提寺として長保寺が再興し、有事の備えとして徳川頼宣公が加茂谷の地に
着目したことも大きなことと考えられる。
こうした二つの山脈に挟まれ、山間部が多くを占めており、
町域40キロ平方メートルの内、平野部が約12%程度であるため、水田は少なく、果樹園が広く見かけられる。
また沿岸部では漁を営み、塩津地区の名称から推測されるように塩焼きの人たちが居たであろうことが想像される。
この様に小さな町ではあるが、バラエティに富んだ農業漁業の生産や文化の交流が行き来していた地域であると言えるだろう。
町内で最も標高の高い鏡石山に起点をなす加茂川が、町のほぼ中心を流れ、川による浸食が谷を形成している。
東西に流れるこの川は、やがて下津港へ注ぎ、紀伊水道と出会う。
下津町沖合は、豊富な漁場でもある暖流黒潮の恵みをもたらしてくれている。
瀬戸内式気候に属したこの地は一年を通して温暖で、降雨量も少なく、山間部などでは
古くからミカンの栽培が盛んで、最近ではビワ・キウイなどの果樹園農家も多い。
この下津町の前身となる呼称が、加茂谷と呼ばれる地区であった。
近代の下津町は、明治期の集落合併を経て、昭和30年(1955年)に下津(濱中村)・大崎町・塩津村・加茂村・仁義村との合併により、
現下津町として発足し、平成17年(2005年)の4月までの半世紀の間、行政区として存在していた。
加茂谷としては、現在有田市初島町に属している椒(はじかみ)地区も含まれていたが、地形地質、水系などの観点もあり、
椒村は初島町に編入し、やがて有田市へと組み込まれていった。
当然、加茂谷の全貌を見て行く上で、椒村についてもここで扱う対象としていきたい。
下津町は小さな町であるが、元は山塊集落が編入統合を繰り返して、形成してきた近代行政区への経緯と
やはり加茂谷と言う古くからの文化圏のまとまりがあったことによるものだ。
町北部に悠然と構える藤白山脈は、古来より熊野参詣道の一郭となす紀伊路が通っており、藤白峠には
熊野第一の美景と呼ばれる御所の芝がある。
御所の芝からの景観は素晴らしく、紀ノ川河口による紀ノ川平野を一望することができる。
周辺には地蔵峰寺城跡も確認され、守りの詰所として機能し、近くには大野城跡もあった。
南方の境界は長峰山脈が横たわり、有田との文化の境を成していた。
長峰山脈以南でも有田川平野を望むことができる。
紀ノ川平野と有田川平野の異文化を二つの山脈が分け隔て、その山間地帯に加茂谷が挟まれる様な形で成り立っている。
やはり紀伊路が交通の要となり、加茂谷は古くから文化の交換の機能をしていたと想像する。
蟻の熊野詣で賑わっていた当時は、都人の姿を見かけてはもてなしをして、雅な香りを感じていただろうし、
異国の者からの話を聞いたりして、日々の生活の息抜きになっていただろう。
また中世においては、紀伊徳川家の菩提寺として長保寺が再興し、有事の備えとして徳川頼宣公が加茂谷の地に
着目したことも大きなことと考えられる。
こうした二つの山脈に挟まれ、山間部が多くを占めており、
町域40キロ平方メートルの内、平野部が約12%程度であるため、水田は少なく、果樹園が広く見かけられる。
また沿岸部では漁を営み、塩津地区の名称から推測されるように塩焼きの人たちが居たであろうことが想像される。
この様に小さな町ではあるが、バラエティに富んだ農業漁業の生産や文化の交流が行き来していた地域であると言えるだろう。